憲法入門四日目:とある植民地の独立と憲法(3)成文憲法の誕生

1 戦争に勝った後

 前回,本国との戦争に勝利したところまでお話ししました。

 今回は,その後の話になります。

 戦争に勝ったことで独立は完全なものとなりましたが,むしろその後のほうが重要です。なにせ新しい国を作るわけです。どんな国を作るのか,課題は満載でした。

 

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「独立したのはええねんけど,各邦(state)がばらばらなままやな」

「独立っていうのは植民地が本国から独立して邦になったってことでしかないからね。統一国家になるかどうかはまた別の話ってことで,それぞれの邦はこれまで通り,みんな自由にやっているね」

「一つにまとまらんでもええのか。まあ,どの邦もクセが強いし仕方ないか。自分の邦が一番と思ってる奴らばっかりやからな」

「いや,仕方なくないね。統合して,一つの国家になったほうがいいと思う」

「やっぱりまとまったほうがええか」

「まとまらないと,経済がうまく回らないよ。諸外国にも太刀打ちできないし。それに,邦同士が仲違いして戦争にでもなったりしたら,もう目も当てられないよ」

「それもそうやけどな,けど,まとまったら大きな国になってしまうやろ。そうすると,それだけ国家権力も強大になって危ないやろ。強大な国家権力がわしらを弾圧したりしたら本国と同じやで。そんなんなるんやったら独立した意味がなくなるで」

「たしかにそういう心配はあるね。つまり,統合はするけれど,国家権力が強大になりすぎないようにする仕組みを工夫したらいいってことじゃないかな」

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2 連合するのか一つの国にまとまるのか

 まず最初に決めなければならなかったのは,別々の国家としてやっていき緩やかに連合するのか,それとも一つの国にがっつりとまとまるのか,という問題でした。

 そもそも本国から独立するかどうかというときも,各植民地の意見はばらばらで,独立に向けて足並みを揃えるのにたいそう苦労しました。

 戦後,各植民地は,独立した以上はもはや「植民地」ではないとして「邦(state)」と名乗るようになっていましたが,各植民地あらため各邦は相変わらず自立意識が強いままで,まとまっていませんでした。それぞれの邦が独自にやっていたのです。

 

3 各邦の実情

 戦争の前から,各邦はそれぞれが国家となりつつありました。本国から派遣されていた役人は追放され,新しい政府を作っていました。中にはすでに成文憲法を制定した邦もありました。

 いくつかの邦は,貨幣を造りました。その結果,各邦で貨幣が異なって円滑な経済活動が阻害されるという事態が生じました。

 また,各邦はそれぞれが軍隊を持っていました。そのため,下手をしたら邦同士で戦争が起こりかねない状況でした。実際,経済的なごたごたで揉めるということもあったようです。外部に敵がいたら一致団結するけれど,敵がいなくなった途端に内部で揉め始めるというよくある話です。

 

余談:世界最長寿の成文憲法

 「世界最初の成文憲法とは何か」というと,一般に,アメリカ憲法とされています。

 しかし,厳密には,上で述べたように,アメリカ憲法よりも先に,邦で憲法典が制定されています。その一つがバージニア憲法です。これは各州の憲法のモデルともなりました。

 アメリカ憲法は1787年に制定されて現在も効力を有していますので,世界最長寿の成文憲法と言うなら正しいです。

 

補足:連合会議

 実際には各邦がまったくのばらばらだったというわけではなく,連合規約に基づく連合会議というのがあり,この連合会議が各邦の意見をまとめていました。ちなみに独立前は大陸会議という名称でした。

 しかし,連合会議には,課税する権限や通商を規制する権限がなく,固有の常備軍も持っていませんでした。連合というごく緩やかなまとまりでした。

 このような緩やかなまとまりのままでいいのか,もっとしっかりまとまるべきではないかが議論されたわけです。

 

余談:united states

 「邦」は合衆国建国後は「州」と表現するのが一般的です。植民地→邦→州と名称が出世していきます。邦も州も英語ではstateです。

 stateというとunited states(合衆国)を連想します。各邦(state)が統合(united)したということでunited statesが生まれました。

 そうすると,united statesの日本語訳は「合衆国」ではなくて「合州国」となるはずだ,なぜ「合衆国」となっているのだろう,なぜかしらと気になってきます。わたくしは気になり出すと夜も眠れない繊細すぎる神経の持ち主なので困っています。

 調べると,どうやら清国がアメリカと条約を締結する際に「大亜美理駕合衆国」としたことが由来のようです。

 しかし,中国語でも衆とは多くの人という意味らしく,合衆国だと多くの人が連合した国という意味になりそうです。州が合わさった国とはやはり違う気もするのですが,いかがでしょうか。結局よくわからず,夜が眠れないままで困ります。諸説あるようです。

 

4 中央政府への懸念

 各邦がばらばらでいるよりも,統一する中央政府を作ったほうが経済や軍事や外交といった面においてメリットが大きいようにも思えます。

 しかし,中央政府には大きな心配もありました。中央政府を作るとそれだけ国家権力も強力になるという点です。

 そもそも独立に至ったのは,本国が強大な力に物を言わせて植民地の自治を侵害しようとしたからでした。強力な中央政府を作ってしまうと,各邦は自治権を失い,ひいては人々の自由が侵害されてしまいそうです。大丈夫でしょうか。多くの血を流してまで独立し自治を守ったはずなのに,大事な自治権が失われてしまった,独立した意味がなかったなんてことになってしまわないでしょうか。

 

5 独立戦争を戦う中で

 各邦はもともと強い自立意識を持っており,どこぞの不良高校のように一つにまとまらない人たちだったのですが,独立するころには,その意識に変化が生じていました。

 各邦が一致団結して独立戦争を戦い抜いたという経験をしたことが大きかったと思われます。一致団結して戦ったことで,自分の邦だけでなく異なる邦の人々との間にも連帯意識が芽生えました。戦友というのは強い絆を生むようです。また,一致団結することで強大な本国にも勝てたわけですから,統合するメリットが大きいということも実感できていました。

 そのため,中央政府を作るべきなんじゃないかという考え方が,人々の間で主流となりつつありました。

 

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「各邦を統合して一つの国家を作るのはええけど,具体的にどこから手をつけたらいいんや」

「国家を作るってことは,国家統治の仕組みを作るってことだよね。だから,国家統治についてのルールを決めていくことになるね」

「ルール作りか」

「つまり,国家統治の法,憲法を作ることになるね」

「憲法というと,本国にも憲法はあったけど,古くからの慣習やらで成り立つものやったで。でも,わしらには古くからの慣習なんてあらへんで」

「新しい国を作るんだから,もちろん慣習はないね。そもそも本国の古い慣習なんて否定すべきものだしね。みんなで知恵を絞って一つ一つ議論して国家の仕組みを作っていくこととなるから,憲法は,すでに存在するものではなく,一からみんなで作り出すものになるね」

「一からか。大変そうやな」

「でも,慣習がないからこそ,伝統やら何やらに縛られることのない国,人類史上初めてとなるような新しい国を作ることができるよね」

「なるほど。史上初なんて言われるとなんかワクワクしてきたで」

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6 国家のあり方を議論する

 各邦を統一する中央政府を作ることとなり,次はどんな仕組みの国家にするかという話になります。

 そこで,各邦の代表者が集まって議論することとなりました。「憲法制定会議」です。各邦から選りすぐりのメンバーが集いました。

 中央政府を作ることの合意は得られたものの,中央政府に強力な権力を与えることについては反対する意見が根強く,各邦の自治にも大いに配慮してバランスをとることとなりました。口で言うのは簡単ですが,なかなかの難問でした。

 また,各邦は自らの利益を強く主張しました。とくに議員の定足数をどうするかという問題ではずいぶんともめたようです。

 代表者たちは,口角泡を飛ばし,暑い暑い3か月を過ごしました。

 

補足:憲法制定会議

 憲法制定会議という名称がついていますが,実際には,最初から中央政府を作るとか憲法を制定するという目的で集まったわけではないようです。当初は,連合会議をもう少し整えようということで集められました。それでも,これはうさんくさいぞ,本当の目的は違うんじゃないかと敏感に察知する人もいたりして,代表者が集まるのに時間がかかりました。中央政府構想に断固反対だった一つの邦は,ボイコットして最後まで代表を送りませんでした。

 何度か開催を延期し,まだ全員はそろっていないけれどどうにか定足数は満たすだけの人数がようやく集まり,どうにか会議の開催にこぎつけます。

 会議では,まず,すでに制定されていたバージニア憲法を叩き台として議論がなされました。各邦が緩やかな連合を続けるという案もやはり有力に主張されました。激しい議論の末にこの案は否決され,各邦を統一する中央政府を作ること,そのような内容の憲法を制定することが決まったのでした。

 

余談:暑い3ヶ月

 憲法制定会議はフィラデルフィアで開かれました。5月25日から9月17日まで,一夏の間に激しい論争が行われました。

 会議には後に初代大統領となるワシントンが出席し,議長をつとめています。

 『ザ・フェデラリスト』を執筆し,第4代大統領となるマディソンも出席していました。マディソンは憲法の基礎を作ったということで「アメリカ憲法の父」と称されています。

 その他,ベンジャミン・フランクリンやハミルトンなど,錚々たるメンバーが会議に出席していました。議論が白熱したのも当然でしょう。

 もっとも,会議室が暑かったのは,秘密を厳しく守るため窓を締め切っていたからというのもあるようです。

 

補足:フェデラリスト

 憲法制定会議では,強力な中央政府を作ろうとする連邦派(フェデラリスト)と,これに反対し,中央政府を作るにせよなるべく小さなものにすべきとする反連邦派(アンチフェデラリスト)との間で激しい論争がありました。論争の末に,連邦派の主張をベースとすることで合意に至り,それに沿った憲法案が作成されます。そして,各邦の代表者たちが憲法案を持ち帰り,それぞれの邦の議会に批准を求めることとなりました。

 しかし,各邦の議会でも反連邦派からの大きな反発を受け,議論が嵐のように巻き起こりました。

 そこで,連邦派はどうしたかというと,反連邦派を弾圧・・・したりはしませんでした。また,どこぞの国の政治家のように,うわっつらの言葉で適当にごまかしたりもしませんでした。あくまできちんと議論したうえでの合意形成につとめたのです。えらい。

 ハミルトン,マディソン,ジェイの3人は新聞に『ザ・フェデラリスト』を連載し,憲法案がどのような政府を作ろうとしているのか,どのような思想によって成り立っているかを丁寧に説明しました。『ザ・フェデラリスト』は今もアメリカ憲法解釈の資料とされています。岩波文庫に抄訳版がありましたが,残念ながら絶版のようです。

 

余談:唐突に出てくる憲法

 アメリカ独立の話を読んでいると,「憲法制定会議」ということで唐突に「憲法」が登場します。フランス革命の話にも「憲法が制定されるまでは解散しないぞ」という「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」のところでがやはり憲法が唐突に出てきます。

 なんで唐突に憲法が出てくるんだろう,どこから憲法制定の話が湧いて出てきたんだろう,誰が憲法を制定しようと言い出したのだろうと,不思議に思ったことはありませんか?私は不思議でした。

 特定の思想家がいるのかしらんと思って調べてみたのですが,どうもそういうわけではなさそうです。

 これまでお話ししてきたような,本国における法の支配に始まる長い歴史と,人々の熱い議論を経て,憲法を作ろうという話が生まれてきたということのようです。

 

7 存在するものから作り出すものへ

 本国をはじめとするそれまでの国々は,古い慣習に基づいた統治制度で成り立っていました。当然,統治に関するルールである憲法も,慣習に基づいたものでした。憲法はすでに存在するものだったのです。

 これに対し,植民地時代には自治の伝統があったとはいえ,各邦が手を組んで新しい国家を作ろうとなったので,慣習がまったくない国を一から誕生させることになりました。必然的に,憲法は,人が新たに作り出すものとなったのでした。

 

8 啓蒙思想に基づいた国家作り

 しかも,単に新しい国を作るというだけではありませんでした。啓蒙思想に基づいた国を作ろう,これまでに前例のない国にしようという話になっていたのです。

 啓蒙思想は理性を重視し,合理性を尊重したので,そもそも非合理的な慣習は否定されるべきものでした。そして,人は自由かつ平等な存在であり,国家は人々の自由平等を守るために存在するとされました。

 そうすると,憲法を作るということの意味も,単に新しい国を作るからというにとどまらないことになります。すなわち,憲法を作るのは人々の自由平等を守るためであり,国家権力を制約するものとして憲法が必要である,という考え方になるのです。

 

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「それに,憲法を作ることは,強大な中央政府を制約することにもなるから,メリットが大きいよ」

「そんなことになるんか」

「本国においても,王様の権力は法の下にあるとされていたよね。これは王様に限らず,どんな権力も法の下にあると言っていいよね。そして,この場合の法とは,統治に関する基本法である憲法のことだよね」

「そうすると,国家権力よりも憲法のほうが上位だから,中央政府も憲法には逆らえない,強大な中央政府も憲法に制約される,だから憲法を作っておけば安心,ということか」

「そうだね。もちろん,憲法の内容があやふやだったりへろへろだったりしたら制約にはならないけれど。中央政府が好き勝手できないように,憲法の内容をしっかり詰めないといけないね」

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9 憲法によって国家権力を制約する

 本国においては,紆余曲折はあったものの基本的に法の支配という考え方が支配的でした。王様といえども法の下にある,ということです。

 この法の支配の考え方が発展します。王様だけでなくあらゆる国家権力の上に法がある,そしてこの法とは憲法のことだとなります。その結果,憲法に基づいて統治をしなければならない,国家権力は憲法によって制約されるということになったのでした。

 

10 立憲主義

 これも既に登場しており学習済みのはずですが,このような考え方を「立憲主義」と言います。

 憲法は,それまでは,国家の組織についてのルールという意味で使われていました。

 しかし,憲法をそれにとどまるものとせずもっと活用しよう,人々の自由平等を守るためのものとしてもっと積極的な意味を与えよう,そのために国家権力よりも上位のものとすることで国家権力を制約させよう,というのが立憲主義の思想と言えます。

 

11 憲法の意味が進化

 国家統治の根本的なルールという意味であった憲法が,さらに,国家権力を制約するという役割も付加されたことで,憲法の意味が発展して進化したと言えるでしょう。

 すなわち,憲法とは,人々の自由を守るために国家権力を制約するものだということになったのです。

 

12 古典的立憲主義

 立憲主義という言葉も多義的です。

 立憲主義の意味が,憲法によって国家権力を制限しようとすることに尽きるという考え方もあります。

 たしかに立憲主義の最小限は,憲法による国家権力の制限です。ただ,そうすると,それなら立憲主義は昔の時代にもあったじゃないかという話が出てきます。かつて貴族やらの特権階級は,自らの利権を守るために,法によって王様の権力を制限しようとしました。これも立憲主義と言えるのではないかということです。「古典的立憲主義」と言います。

 ただ,このころは成文の法典としての憲法があったわけではありませんし,憲法を制定しようという話があったわけでもなく,王様の権力を制限する目的も人々の自由を守るためではありませんでした。

 

13 近代立憲主義

 これに対し,これまでお話ししてきた立憲主義は,人々の自由や生命や財産を守るために,憲法を制定し,制定した憲法によって国家権力を制約しようという考え方です。近代になって生まれた考え方であり,これを「近代立憲主義」と言います。

 立憲主義というときには,この近代立憲主義のことを意味している場合も多いです。学習のうえでは少しややこしいですが,近代立憲主義が本来の立憲主義と言ってよいでしょう。

 そして,憲法も,様々な意味がありますが,近代立憲主義に基づく憲法こそが本来の憲法と言うべきでしょう。

 

余談:憲法においてもっとも重要な原理原則?

 どこかで見かけたのですが,憲法にとってもっとも重要な原則は立憲主義ではないという文章があって仰天しました。

 たしかに,憲法において重要な原理原則はいくつもあり,そのうちのどれがもっとも重要なのか憲法に明記されているわけではありません。好きに解釈できるという面はあります。

 しかし,先ほどからお話ししていることからすれば,憲法において立憲主義は重要どころかむしろ不可分の関係と言えます。

 したがって,上述の文章は,根本的なところからおかしなことを言ってるとわたくしは思うのですが,いかがでしょうか。

 

14 憲法が世界へ

 近代立憲主義に基づく憲法を制定するということは,一国だけの話にとどまりませんでした。世界各国にも波及していきます。

 憲法!,これはええもんや!,素敵!,素晴らしい!,わしらの国でも真似して作るぜよ!,近代国家となるからには憲法制定が必要ぜよ!,というわけです。

 憲法を制定することがいわばブームのようになりました。

 

補足:大日本帝国憲法の制定

 世界的なブームは日本にも押し寄せてきます。

 明治維新の後,いち早く国を近代化するためには,政府が権力を掌握しておく必要がありました。

 しかし,だからといって専制君主制国家になってしまうと,諸外国から遅れた国とみなされてしまい,それもよろしくないです。

 諸外国にアピールするためには,憲法を制定しています!,わたしたちの国は憲法に基づいた政治を行っています!,だからわたしたちの国は文明国です!,と言えることが必須でした。

 また,軍事反乱は西南戦争を最後におさまっていたとはいえ,言論による反政府運動は激化していました。彼らをなだめるためにも憲法制定が必要でした。

 そこで,伊藤博文らによって,大日本帝国憲法が制定されるに至ります。大日本帝国憲法の内容には不十分なところも多くありましたが,憲法を制定し,国家権力は憲法に基づいて行使されることになったという点では大きな前進でした。

 

補足:伊藤博文と立憲主義

 大日本帝国憲法を制定するにあたり,枢密院で審議がなされています。その際,当時枢密院議長だった伊藤博文は「憲法ヲ創設スルノ精神ハ第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」と述べており,注目されています。

 すなわち,憲法の起草者である伊藤博文がはっきりと,憲法によって権力を制限することと,憲法が人々の権利を保護するものであることを表明しているのです。

 このことからも,大日本帝国憲法が立憲主義という観点からは大きな前進だったということがわかります。

 

余談:東大入試問題

 東京大学の2014年日本史入試問題は,大日本帝国憲法の発布を民権派が祝ったのはなぜかというものだったそうです。民権派からすれば大日本帝国憲法には反対するのが筋なのに,なぜ祝ったりしたのでしょうという問題です。

 どうやらいまどきは,高校生でも立憲主義に基づく憲法をきちんと理解しておかなければならないようです。

 そういえば,どこかの予備校講師が書いた憲法マニュアル本には,「ダメな憲法=大日本帝国憲法/よい憲法=日本国憲法」というような整理がなされていて,いささか驚愕しました。こんな整理ではきっと東大入試問題は解けなかったことでしょう。

 

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「憲法を作るというのは,憲法の内容を文書にしてまとめる,つまり成文の法典を作るってことでいいよね」

「法を新しく作るというのは法典を作るってことやしな。それに,文書があるほうが内容がはっきりしてええやろ」

「本国の憲法は法典がなくて慣習に多く委ねられてたから,どんな内容なのか,ちょっとあいまいだったよね」

「あいまいなせいで,王様の子分のあの若僧と論争したときは都合よくごまかされてしまって腹立ったわ」

「刑法の世界では,最近,犯罪と刑罰は法典に明示すべしっていうのが流行してるよね。だから,憲法も法典にしたほうがいいね」

「ファッションと同じで流行には乗っておくべきやな」

「法典にしておくことで広く人々にも周知できるし,権力者にも言い逃れを許さないし,未来に伝えることも容易になるね」

「それに,もともとわしらは特許状を基本法典にして,特許状に基づく政治をしてたんやから,統治の基本的な仕組みを文書にしておくということには馴染みがあるで」

「人民の合意のもとに国を作るんだから,合意した以上は契約書が必要とも言えるよね」

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15 不文憲法

 それまでの時代では,国のかたちに関するルールを法典の形にして単一の文書に書き記すということは行われていませんでした。

 たとえば本国では,憲法の内容は,慣習等でなんとなく不明確に決まっていたり,いくつかの法典にばらばらに規定されていたりしました。一つの法典にまとめようという発想にはなりませんでした。

 

16 憲法の内容をはっきりさせよう

 植民地は本国と武力衝突する前に,本国の憲法を持ち出して憲法違反だという主張を行いました。力で闘争する前に,まずは理論で闘争したわけです。

 しかし,憲法論争はいまひとつ話が噛み合わず,結局,うやむやにされてしまいました。その原因は,そもそも憲法の内容が不明確というところにありました。本国は,内容がはっきりしないのをいいことに,自分たちに都合よく憲法の内容はこうだと主張したのです。何が憲法の内容なのかという高尚な議論に持ち込まれ,議論は平行線になり,結局ははぐらかされてしまいました。

 

17 成文憲法

 こういうことにはならないよう,憲法は法典の形にして,その内容を文書に書き記すべきだということになりました。

 憲法を法典の形にするというのは,画期的なことだったと思います。

 すでに存在する法を発見するという考え方から,法とは人が作り出すものという考え方へ移り変わったことで,法を作るからには法典の形にするのは当然という意識になっていたとも言えるでしょう。

 文章の形式で存在する憲法を「成文憲法」と言います。

 

補足:チェーザレ・ベッカリーア

 刑法学習において,イタリアの法学者ベッカリーアが登場します。ベッカリーアといえば1764年の著作『犯罪と刑罰』です。法学を学ぶなら覚えておきましょう。書名が覚えにくいという方は,ドストエフスキーの『罪と罰』で覚えましょう。

 ベッカリーアはこの『犯罪と刑罰』において,いかなる行為が犯罪となるのかということと,その犯罪に科せられる刑罰が何かということは,あらかじめ,必ず,法律で定められていなければならないと主張しました。人々の自由を守るために,権力者が好き勝手に刑罰権を行使するようなことは許されない,刑罰を科すには事前に法律によって犯罪と刑罰が規定されていなければならないということです。

 啓蒙思想の下,このような法治の思想が流行しつつあり,成文の法典が極めて重視されるようになっていました。その影響が憲法の世界にも及んだんじゃないかなあと思います。成文の法典によって統制すべきは刑罰権の行使だけに限らない,国家権力全般を成文の法典で統制しよう,となっていったんじゃないでしょうか。

 

補足:法律は不分明なものであってはならない

 ベッカリーアは他にも死刑廃止や拷問禁止などいろいろなことを主張しています。その中に,法律は明確な形で人々に知られていなければならない,というものもあります。法律の内容があいまいであったり難解であったりしてはいけないし,人々に秘密にされていてもいけない,ということです。そうでないと,結局,どんな行為をしたら犯罪になって処罰されてしまうかわかりませんし,恣意的な刑罰を受けるおそれもあり,あらかじめ法律で決めておいた意味がなくなります。

 法律の内容を明確なものとするためには,成文の法典という形にすることが必須です。さらに,わかりやすい言葉で書き,人々に周知することも必要です。わかりやすい言葉というところはなかなかの難問です。現代日本でもどこまで実現しているでしょうか。

 

18 特許状による統治の歴史

 植民地時代に,いくつかの植民地では,国王が発した特許状を統治における基本的な法典として,特許状に基づく統治がなされていました。

 

19 特許状から自治へ

 本国としては,植民地の人々に気持ちよく働いて利益をあげてもらいたかったのですが,そのためには植民地に大きな自治を認めざるを得ませんでした。植民地はとても遠く連絡に時間がかかるので,本国からいちいち細かい指示を出してられないという現実的な問題もあったでしょう。

 そこで,王様が植民地に対し植民地の統治に関する基本的なところを記載した特許状を授け,細かいところは植民地の自治に委ねることととしました。

 これにより,特許状に基づく統治が行われ,自治の伝統が育まれていくこととなります。このような伝統があったため,本国が課税しようとしたときには自治の侵害だとして猛反発が生じ,独立へとなっていったのは前回お話しした通りです。

 ここでは,統治に関する基本的な法典をもとに政府を運営するのが当然という意識になっていた点に注目しましょう。独立するころには,政治社会を形成するためには統治の基本を明記した基本法が必要だという意識がしっかりと根付いていたのです。

 

余談:特許状が憲法に

 各邦が憲法を制定したというお話をしましたが,中には特許状をほぼそのまま憲法に採用した邦もあったそうです。

 

20 社会契約だから契約書

 成文憲法の背景には,社会契約説の影響もあるようです。

 このころには,神様が王様に対し,国家の統治を委ねたのだという考え方は否定されつつありました。代わりに,人々が社会契約を締結して国家を作り,権力者に統治を委ねたという考え方が有力になっていました。

 そうすると,契約した以上は契約書を作っておくべきだろうということで,契約書である憲法典が作成されたということです。

 

補足:国の象徴

 新しい国をまとめる象徴として,文書としての憲法典を利用することにした,という面もあるかもしれません。

 もはや王様を国の象徴にはできませんから,王様にかわる象徴として,憲法典を聖典として使おうということです。

 

補足:憲法典の原本

 調べてみたら,独立宣言書やアメリカ憲法典の原本は,ワシントンにあるアメリカ国立公文書館に行けば見られるようです。

 ちなみに独立宣言書は羊皮紙という,なかなか趣のある素材が使われています。聖典となるまでのしばらくの間,ぞんざいな扱いを受けていたため劣化してしまった,という歴史もあるようです。

 なお,わが日本の大日本帝国憲法と日本国憲法の原本は,国立文書館に常時展示されているようです。

 

余談:絵画

 独立宣言書やアメリカ憲法典に署名するシーンは絵画にも描かれており,有名な絵画だそうです。いかに誇らしい出来事とされているかがうかがえます。レプリカが販売されていて,ネットでも購入できます。

 ちなみにこの絵画はドラマ『アダム・スミス』にも出てきましたが,現実と違うと言われていました。

 1885年発行のマーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでいたら,ハックが立ち寄った家の壁に「独立宣言の署名」という絵画がかかっていました。もうこのころには歴史的な出来事となっていたようです。

 

余談:憲法典のダウンロード

 アメリカ国立公文書館のサイト(https://www.archives.gov/founding-docs/join-the-signers)に行けば,独立宣言書やアメリカ憲法典をダウンロードすることができます。なんと署名することもできます。

 ちなみに,独立戦争を主導した人だけでなく,独立宣言書や憲法に署名した人も「建国の父」とたたえられています。とくに独立宣言書のほうは,署名したりしたら本国の王様から反逆者扱いされて絞首刑になるかもしれないという状況でなされた署名ですので,侠気,勇気に溢れています。是非みなさんも署名をどうぞ。

 

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「よし,じゃあ,いよいよ憲法の内容を詰めていこか」

「大前提として,新しい国は君主制にはしないってことでいいんだよね」

「当たり前や。戦争中から,もう本国の王様はあかん,いやそもそも君主制があかんってことでわしらは団結したんやで」

「うん,これからは共和制の時代だね」

「わしらは啓蒙思想を学んだんや。今さら君主なんか戴けるかいな」

「世界中どこもかしこも君主制の国ばかりだから,そういう意味でも新しい国が生まれるね」

「ますますワクワクしてきたで」

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21 君主制か共和制か

 「君主制」というのは,ざっくり言うと,君主がいる国家です。

 他方で,君主がいない国家が「共和制」です。特定の誰かの利益を図るのではなく,公共のための国家ということです。

 

補足:君主制

 単に君主がいるだけでなく,君主が統治している国家,君主が国家権力を有している国家を君主制というほうが一般的かもしれません。この定義でいくと,君主がいても国家権力を有していない場合は君主制ではないということになります。

 かつては君主制の国ばかりだったのですが,現代では君主はずいぶんと減ってしまっているようです。興味がある方は君塚直隆『君主制とはなんだろうか』(ちくまプリマー新書)からどうぞ。

 

補足:共和制

 そもそも共和制とは何かというと,難しい話になります。

 現実の国家には,名前だけ共和国と名乗っている国もあったりします。皆さんも心当たりがありませんか。

 共和制のrepublicはラテン語でres publicaであり,「共同のもの」というような意味でした。国家は王様の好きにしてよい私物ではなく,構成員全体の公共のものなのだという考え方です。なので,君主制でないもの=共和制となるわけです。

 国家が一部の者だけの利益を図るのではなく,全体の公共の利益を図る場合が共和制ということでよいでしょう。

 

22 君主制が常識だった

 当時は,国家には王様がいるのが当たり前でした。君主制が世界の常識でした。

 そのため植民地の多くの人は,本国との間でごたごたが起き始めた当初は,君主制ではない新しい国を作ろうなんてことはまるで考えていませんでした。そもそも,王様に反抗することも考えていませんでした。多くの人の考えは,王国の一員として王様にはもちろん忠義を尽くす,本国から独立するつもりなんてない,ただ昔からの自治権さえ守ることができればそれでよい,というものだったのです。

 

23 君主制反対

 ところが,本国の強圧的な態度が収まらず話し合いにならなかったことで,風向きが変わっていきます。これはもう王様自身に問題があるんじゃないかとなりました。さらに啓蒙思想の影響もあり,そもそも君主制という制度そのものがダメなんじゃないかと考えられるようになりました。

 独立派はこういう雰囲気を煽り,もはやこの王様はダメだ,いや君主制がダメだ,これからは共和制にすべきだ,王様に反抗して自由と自治のために戦うべきだと主張して,人々の意見を独立にまとめていったのでした。

 

補足:『コモン・センス』

 トマス・ペインが著した『コモン・センス』は,独立戦争の最中に出版されたパンフレットです。いかに君主制がよろしくないか,なぜ独立が必要か,独立して人々の権利を守ることがCommon Sense(常識)なのだと熱く論じられています。アカデミックで高尚な文章ではなく,わかりやすい文章で書いてあったので,一大ベストセラーとなりました。 人々を独立の方向へと向けさせる大きな影響がありました。

 ジェニファー『アメリカを作った思想』によると,それまで書かれていた文献は高いところからの目線で書かれていたそうです。回りくどく難しく偉そうだったのでしょう。だからこそ,ふつうの人々の言葉で書かれた『コモン・センス』がよく読まれたというわけです。わたくしも大いに見習いたいとことです。

 

余談:トマス・ペイン

 トマス・ペインはアメリカ生まれではなくイギリス生まれであり,大人になってからアメリカに渡り,独立に関わることとなりました。独立に与えた影響の割には扱いが軽く,建国の父ともされていないようです。地主ではなかったからでしょうか。独立後はフランスにわたって今度はフランス革命に関わり,捕まって処刑されそうになり,どうにか助けてもらってアメリカにもどり,最後は寂しく亡くなるという波瀾万丈の生涯だったそうです。

 

余談:君主制国家となることもありえた

 実際,王様の子どもを連れてきて王位につけるという噂も流れていたようです。

 また,人気のあった総司令官ワシントンがきっと王様になるに違いないと考えていた人もいました。戦争後,ワシントンがその見識を発揮して総司令官の座を辞任し,クーデターを起こしたりすることがなかったので君主制国家となることはありませんでした。権力を手放すことが難しいのは『指輪物語』で指輪を捨てることがいかに難しかったかを見ればわかります。

 

余談:大統領

 ワシントンは初代大統領に選任されます。しかし,自身が君主と見られることのないように細心の注意を払ったそうです。

 ところで,大統領(President)はもともと司会者や主宰者といった意味だったようです。行政府のトップにPresidentという名称を採用したのも,君主と見られないようにという工夫の一つでした。そうすると,日本語の「大統領」はちょっとすごそうな感じがするので,「大」はないほうがいいような気もしてきます。

 

補足:共和制と民主制

 もしかしたら共和制でなくて民主制ではないのか,そもそも共和制と民主制は違うものなのか,といった疑問が生じているかもしれません。

 ちなみに『スターウォーズ』では帝国軍と共和国軍が戦っていましたが,『銀河英雄伝説』で帝国と戦っている自由惑星同盟は民主共和制だそうで,共和制と民主制が合体しています。

 共和制と民主制は同じような意味合いで使われることもありますが,両者は次元の異なる言葉です。

 

補足:共和制と民主制の違い

 先ほどもお話ししたように,共和制は公共の利益を図る国家のことでした。

 他方で,民主制のdemocracyは,ギリシア語の demos kratiaが原語だそうで,demosが「人民」,kratiaが「支配」ですので人民の支配という意味になります。

 そして,普通は人民が支配すれば人民全体の利益を図るでしょうから,民主制は共和制と親和的と言えます。

 もっとも,古代中国の堯舜のような素晴らしく徳の高い独裁者であれば,国家全体の利益を図った統治をしてくれそうです。そのような場合には,民主制でないが共和制であると言えそうです。こんな独裁者は神話の世界にしかいないでしょうから実際にはありえないですけど。

 また,民主制であっても形だけのものだったり多数派が少数派を弾圧していたりすれば,公共の利益を図っているとは言えないでしょう。

 

補足:アメリカのデモクラシー

 アメリカは建国当初は民主制に対して警戒的でした。民主制にすると民衆が感情的になって過激な行動に出たりするから危険極まりない,政治は公共のことをよく考えることができる人々,慎重に熟慮できる人々が担うべきだと考えられていました。悪く言えばエリート主義です。

 選挙権が十分に与えられていなかったり,奴隷制の問題が解決されていなかったりという問題もあり,民主主義がしっかり実現されたとは言えませんでした。

 しかし,さまざまな運動等を経て,徐々に民主制を取り入れていていくこととなります。そうして,共和制と民主制が合わさり民主共和制というようなものになります。

 このあたりを詳しく学習したい方は,まずは宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)がよいと思います。

 

24 主権者は人民

 共和制を採用したことで,国家は王様のものでないということは確定しました。

 そして,啓蒙思想や社会契約説によれば,国家権力は人々から委託されたものだということになります。権力の源は人民であること,すなわち人民に主権があるとされました。

 

補足:アメリカ憲法と共和制・人民主権

 アメリカ憲法には,共和制を採用するという規定や人民に主権があると明記した規定はなかったりします。

 ただ,独立宣言には「われわれは,以下の事実を自明のことと信じる。すなわち,すべての人間は生まれながらにして平等で あり,その創造主によって,生命,自由,および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために,人々の間に政府が樹立され,政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る」とあります。政府は人々の権利を守るために成立したことと,政府は人々の合意に基づくことが明記されています。これはすなわち,共和制や人民主権が採用されているということでしょう。

 また,アメリカ憲法の前文には,憲法を制定したのは「われわれ合衆国人民」であるとあります。人民が国家の根本法たる憲法を制定したのは,人民が権力を持っていたからでしょう。したがって,やはり人民主権を採用していると言えます。

 

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「それで,強大な中央政府をどうやって統制するんや。ここが肝心のところやで」

「国家権力がなぜ危ないのかというところから考えていくべきだね」

「強大な国家権力が好き勝手して,わしらが搾取されたり弾圧されたり殺されたりするから危ないんやないか」

「そんなことになってしまうのは,権力が一つに集中するからだよね。ということは,強大な権力を分散させればいいわけだね」

「分散っていうけど,どう分けるんや」

「中央政府は作るけど,大幅に各邦の自治を認めることにするんだ。中央政府に与えるのは必要な権限だけにして,残りは各邦に残すことにしよう」

「連邦制にするんやな。そもそも本国とわしらの関係も連邦制みたいなもんやったな」

「本国の権限は必要最小限のものだけってね。でも,本国はそうは思っていなかったみたいだけどね」

「なるべく各邦に権限を残すほうが,反対派も納得しやすいやろな」

「さらに,中央政府の中でも,立法,行政,司法の三つに分けよう」

「法の制定,執行,判断の三つやな。モンテスキューやろ,知ってるで。それに,わしらはもともと植民地の時代から似たようなことをやっていたな」

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25 権力集中の回避

 すべての権力が特定の人ないし機関に属するとなると,専制政治のおそれがあり,人々の自由が侵害される危険がとても高くなります。ですので,権力を分けることは絶対必要でした。

 ではどう分けるのかという話になりますが,これには中央と地方とで分ける,中央でも分ける,という二つのレベルが考えられます。

 

26 中央と地方とで権力分立

 まず,中央政府には一定の権力だけを与えることとしました。軍事,外交,貿易といった権力です。これらは各邦がばらばらに行動するのではなく,一つの国家として統一的な行動をしたほうがよいものでした。

 それ以外の権力は各邦に残すこととし,各邦の自治を大きく認めることとしました。そうすることで,中央政府の危険をなるべく減らそうというわけです。

 こうして,まずは中央政府と各邦すなわち地方政府とで権力を分散します。

 

補足:連邦制

 かつて植民地は,本国が中央政府,植民地が地方政府というような住み分けをしていると考えていました。だからこそ,本国は地方のことについては決めることができないはずなのに,なぜ勝手に税を課すと決めているのかということで,たいへん怒ったわけです。

 しかし,本国のほうでは,本国政府があらゆることを決められると考えていました。住み分けなんてとんでもないという意識であり,植民地とは意識が大きく違っていました。

 ともあれ,もともと植民地はこのような考え方を持っていたので,新たな国家を作る際にも,連邦制という考え方がすんなり受け入れられたんだろうと思います。

 

27 中央における権力分立

 次に,中央政府においても,権力を立法,行政,司法の三つに分割することとしました。ご存知ですよね,有名なモンテスキューの三権分立です。

 分割しただけでなく,相互に抑制均衡するような仕組みにしました。

 実は,このような三権分立はすでに各邦において行われており,試されていました。そして,権力の濫用を防ぐ仕組みとしてきわめて有効であり健全であるということがわかっていました。このような経験もあったため,新憲法においても三権分立を採用することとしたのでした。

 

余談:モンテスキュー『法の精神』

 三権分立と言えば,『法の精神』のモンテスキューです。

 しかし,それならなぜ著書のタイトルが『三権分立』とならなかったんだろうと不思議な気持ちになります。相変わらず眠れなくていよいよ不眠症です。

 『法の精神』の正式名称は『法の精神について,あるいは法がそれぞれの政体,習俗,気候,宗教、商業などと取り結ぶべき関係について』というものです。この著作の特色は,理屈から始めるのではなく,社会の観察から始めるところにあります。多くの社会を観察する中で,イギリス国制についての観察も行い,そこから理想の姿としての三権分立を論じたわけです。そういうわけで,『法の精神』の中で三権分立に触れられているのはごく一部だったりします。

 ちなみに『法の精神』には日本も取り上げられているのですが,ほとんどの犯罪に死刑が科される苛酷な国という紹介がなされています。

 

余談:権力分立の提唱者

 一般にモンテスキューが三権分立を提唱したと言われますが,実は,権力分立を初めて唱えたというわけではないようです。『ザ・フェデラリスト』においても,モンテスキューは権力分立思想の創始者ではないけれども,権力分立を広く人々に知らしめた功績があるとされています。

 モンテスキューの前に,かのジョン・ロックが『市民政府論』において権力分立を唱えています。ロックは立法権と執行権(行政権)が同一人物に委ねられると危ないので分けようと言いました。ただ,ロックの権力分立論では,司法権が登場せず,代わりに同盟権という聞き慣れないものが登場します。

 これに対し,立法・行政・司法に分け,現在も採用されている三権分立を唱えたのがモンテスキューということになります。

 

余談:ロックからモンテスキューへ?

 モンテスキューがロックの考え方を発展させて三権分立を完成させたとも言われています。

 しかし,社会の観察から考察を始めるモンテスキューと,個人から考察していくロックとでは思考方法が異なります。なので,モンテスキューが発展させたというのは違うんじゃないかという指摘もあります。

 

28 各機関への権限分配

 こうして中央と地方,さらには中央でも三権が分立されました。

 もちろん,それぞれに与えられる権限についての具体的な規定も設けられました。

 

補足:アメリカ憲法における三権分立

 アメリカ憲法を見てみましょう。第1章が立法部,第2章が執行部,第3章が司法部と規定されており,きれいに国家権力が三つに分けられています。

 これに対しては,三権が厳格に分立されていないぞという批判がありました。たとえば立法権は第1章第1条により議会に委ねられているのに,第1章第7条第2項によれば,執行部である大統領(第2章第1条第1項)が法案の拒否権を有することとされています。立法に執行部が関わるようでは権力分立に反する,ということです。

 『ザ・フェデラリスト』はこの批判に答え,そもそも完全に権力を分立するなんてことは現実的に不可能だろう,そもそも三権が相互にまったく関与してはならないということまで意味するものではない,むしろ大切なのは三つに分けられた権力が相互に抑制均衡するような仕組みであると述べています。

 

補足:議会に委ねておけば大丈夫?

 議会は選挙によって選ばれた人民の代表者によって構成されていますので,民意を直接反映しています。そうすると,議会に国家権力を委ねておけば大丈夫で,あえて他の機関に権力を分立する必要はないようにも思えます。

 しかし,邦の議会では,けっこうな暴政を行う様子が見られました。議員が自分を選んだ有権者だけの利益を図る立法を行ったり,執行権や司法権にも介入したりなどしていました。これでは横暴な王様と同じじゃないかと考えられるようになっていました。

 そこで,やはり三権を分立すべきだし,立法権も憲法に反するような立法はできないとする必要があるとなったのでした。

 

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「各機関への権限分配はもちろんとても重要だけれど,さらに,憲法改正について規定するのも忘れちゃいけないね」

「どういうことや」

「憲法を簡単に改正できないようにしておくんだ。いくら憲法できちんと国家権力を制約しても,じゃあそんな憲法は改正してしまえってことで簡単に改正できてしまうようなら,制約の意味がなくなるよね」

「具体的にはどうするんや」

「立法をするには議員の過半数でできるとされてるよね。けれど,同じく議員の過半数で憲法の改正もできるようでは,立法と憲法改正が同じことになってしまう。だから,立法よりももっとも厳格な手続でないと改正できないようにするんだ。たとえば,議員の3分の2以上にするとか,国民投票も必要とするとかだね」

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29 硬性憲法

 通常の立法手続よりも改正することが困難になっている場合に,その憲法を「硬性憲法」と言います。

 硬性憲法にすることで,憲法は通常の法律と異なり特別な地位にあること,通常の法律よりも優位にあることを示すことができます。

 

補足:アメリカ憲法第5章

 アメリカ憲法第5章には,憲法改正についての規定が1条だけ置かれています。

 読んでいただいたらわかるように,なかなか厳しい要件が課されており,容易に改正できないようになっています。

 それでも,これまで何度か改正されており,修正第1条から第27条までが追加されています。

 

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「憲法があらゆる国家権力より上位にあるっていうことも,憲法の条文に入れておこうよ」

「さっきの憲法改正の規定だけでええんとちがうか。憲法を改正するには通常の立法手続よりも難しい手続が必要ってことにしたやろ。それはなぜかっていうと,憲法がもっとも重要な法規だからやろ」

「その通りだね。ただ,憲法が国のあり方を根本的に定めているもっとも重要な法なんだってことを,あえて明記しておいてもいいんじゃないかな」

「まあ,異論はないで」

「あらゆる法の中でも最高のものであるっていう意味で,『最高法規』と書いておくことにしよう」

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30 最高法規

 これまで見てきたとおり,あらゆる国家権力は憲法に従わなければならない,そういうものとして憲法を制定しようという話でした。

 あらゆる国家権力よりも憲法のほうが上位ということは,国家権力が定めるどんな法よりも憲法が上位ということです。つまり憲法が法の中で最高位ということになります。

 そこで,憲法は最高法規であるとされています。

 

補足:アメリカ憲法の最高法規性

 アメリカ憲法第6章第2項にはアメリカ憲法が最高法規であると規定されています。

 ただ,その条文は「この憲法、およびこれに準拠して制定される合衆国の法律、ならびに合衆国の権限にもとづいて締結された、または将来締結されるすべての条約は、国の最高法規である」となっており,憲法だけでなく,法律と条約も最高法規とされています。

 日本では日本国憲法第98条により憲法だけが最高法規とされているのに,アメリカには最高法規が3つもあります。どうやら,アメリカは連邦制なので,中央政府すなわち合衆国の法律と各州の法律とでは合衆国の法律のほうが優位ということをはっきりさせているということのようです。

 

補足:日本国憲法の最高法規性

 なお,日本国憲法においては,憲法改正規定が第96条にあり,最高法規は第10章の第97条から第99条までとなっています。

 最高法規の3つの条文の中で,真ん中の第98条が,憲法は最高法規だと明示しています。

 その一つ前の第97条が「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は」「侵すことのできない永久の権利」であるとしており,この条文を受けて第98条があるということが注目されます。

 つまり,憲法がなぜ最高法規であるというと,憲法改正の第96条があることから改正がもっとも困難な法だからというだけでなく,第97条に明示されているように憲法が人権を国家権力から不可侵のものとして保障するという内容を有しているからだ,ということです。

 

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「ところで,わしらの自由平等のことは,憲法に書いておかんでもええのか」

「新しい国は人々の自由平等を守るために成立したんだから,それは当然のことだよね。当然のことまであえて書かなくてもいいんじゃないかな」

「でもな,邦の憲法はけっこう書いてるところが多いで。当然のことやけれど,書いておいてもええやろ」

「それよりも,国家権力をきちんと制約するほうが大事じゃないかな。憲法って,国家統治のルールなんだから」

「はたして統治のことだけ書いておいたら十分やろか。わしとしては,統治だけでなく自由平等のことも書いてもらうほうが安心なんやけど」

「国家権力ができることは憲法に書いてあることだけ,書いてないことは人々の権利として残されているって言えるよね。でも,まあ,そこまでいうなら入れておこうか」

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31 人権規定

 すべての人が自由かつ平等であり不可侵の権利を有するという考え方は,このころにはすでに人々の間に広まりつつありました。本国の暴政に対し,団結して戦い自由と平等を守り抜いたのだという自信もありました。

 元になったのは,ジョン・ロックの思想です。個人の生命,自由,財産の保護が出発点であり,その目的を実現するために国家が存在するという考え方です。

 そして,本国にそれまであった権利章典を参考にして,貴族制の要素を取り除き,あらゆる人々の権利として構成しなおしたものが人権規定ないし権利章典として憲法に取り入れられたのでした。

 

補足:人権規定がなかった

 独立宣言には「われわれは,以下の事実を自明のことと信じる。すなわち,すべての人間は生まれながらにして平等であり,その創造主によって,生命,自由,および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために,人々の間に政府が樹立され,政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力得る」と明言されています。

 しかし,アメリカ憲法には,当初は人権規定はありませんでした。

 アメリカ憲法の起草者は,政府の権限は制限されるのだから,そのような政府が人々の権利を侵害することはありえないと考えていました。大事なのはあくまで権力を制限することと考えていたのです。

 しかし,人権規定がないのはおかしいと強く批判されたことで,憲法が制定された後,すぐに修正条項として人権規定が追加されたのでした。

 

32 人権規定の意味

 人権規定は文字通り,人々の権利について規定しています。

 しかし,単なる権利というわけではありません。

 憲法に規定されている人権には,国家権力が侵害してはならない権利という意味があります。

 王様といえども従わなければならない高次の法があるという思想が発展し,国家権力といえども憲法に従わなければならないということになり,さらには憲法上の人権を侵害してはならないとなったのです。

 

補足:修正第1条

 連邦議会は立法機関であり,立法権を有する以上,どんな法律でも制定できそうです。

 しかし,アメリカ憲法修正第1条は「連邦議会は,国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律,言論または出版の自由を制限する法律,ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は,これを制定してはならない」と規定しています。国民の人権を侵害するような「法律」は「制定してはならない」とはっきり書かれています。

 アメリカ憲法が,国民の人権を国家権力から守るためのものということ,すなわち権力をしばるものであるということが,条文上も明確になっています。

 

33 憲法の制定

 憲法制定会議は長く熱い議論の末に意見をまとめ,憲法案を起草します。各代表者がこれを持ち帰り,それぞれ各邦に批准を求めることとなりました。

 各邦でも議論となって大変でしたが,なんとか批准されていきます。いくつかの邦は,人権規定を追加することを条件に批准しました。

 必要な数の賛成がようやく得られ,ここに,憲法が制定されたのでした。憲法の制定とともに新しい国が生まれたのです。人類の歴史上においても新しい国の誕生でした。

 

余談:新時代の到来

 紆余曲折はありましたが,最終的に,すべての邦が批准するに至ります。最後まで反対していた邦は,周囲が次々と批准するのを見てこのままでは自分たちだけが仲間はずれになると危機感を抱き,結局批准します。独立孤高でやっていくのは大変なのです。

 人々は誇りに思い,憲法制定と新国家誕生を盛大に祝ったということです。誇りとしているからこそ,Constituionが戦艦の名前になっていたり,署名の場面が絵画になったりしているのでしょう。

 この出来事は,身分制をはじめとする古い慣習に挑戦するものであり,全世界に新しい秩序をもたらすきっかけとなるものでもありました。新しい国家が一つ生まれたというだけの出来事ではなかったのです。

 新世界万歳,旧世界よさらば。

 

余談:立憲君主制

 この影響が世界に波及し,そのため革命が起きて君主制が打倒された国もありました。

 君主制をどうにか維持した国家も,そのままでいることはできず,君主の権力を制約する憲法を制定せざるを得ませんでした。「立憲君主制」です。

 立憲君主制の中でもどの程度まで君主の権力を制約するかという問題があり,君主にほとんど名目的な権力しか残さないものから,逆に大きな権力を残すものまで,いろいろな段階がありえます。

 ちなみに『銀河英雄伝説』の最終場面には,皇帝に立憲君主制への移行を進める話が出てきます。

 

34 まとめ

 近代の憲法はこのようにして誕生しました。

 最後にもう一度まとめましょう。

 本国においては,王様といえども法の下にあるという思想が優勢でした。

 この考え方がもととなって,いかに王様であっても,あるいは国家権力であっても従わなければならない法があるという考え方が生まれました。国家権力を拘束する法,それが憲法だとされました。

 それまでの憲法が国家統治のルールという意味しかなかったのに対し,それ以降の憲法は国家権力を拘束するという意味が付与されました。なぜ国家権力を拘束するのかというと,人々の自由や生命や安全や財産を守るためでした。というのも,国家は王様や特定の誰かのためのものではなく,人々の自由を守るために生まれたからです。

 このような考え方のもとで,憲法は存在するものではなく作り出すもの,成文法として新たに制定するものとなったのでした。そうして,世界の各国で制定されていき,今日に至っています。

 

35 われわれが学ぶ憲法

 憲法という言葉にはいくつもの意味があることから,われわれが学ぶ対象としての憲法はどのようなものなのか,それをはっきりさせるためにここまで長々とお話ししてきました。

 歴史をふまえると,近代立憲主義の思想に基づく憲法こそがわれわれが学ぶべき憲法です。すなわち,人々の自由を守るために,権力を制限するという思想に基づく憲法です。

 そして,日本国憲法も,すべての人が個人として尊重され,そのために最高法規として国家権力を制限しようとするものですので,近代立憲主義に基づく憲法と言えます。

 

補足:大日本帝国憲法から日本国憲法へ

 明治時代に大日本帝国憲法が制定されましたが,この憲法は,国家権力を制約するものという意味での立憲主義からすれば,大きな前進と言えるものでした。

 他方で,近代立憲主義という観点では不十分でした。

 解釈や運用によって何とかしようという動きもあり,大正デモクラシーという時代もありましたが,この動きはやがて破綻します。

 そういうわけで,戦後,近代立憲主義に基づく憲法である日本国憲法が制定されました。

 

36 次回予告

 憲法とはなにか,われわれが学ぶ対象である憲法とはどのようなものかについてお話ししようとして,ずいぶん長々とお話ししました。それだけの長い長い歴史があると思っていただけたらいいんじゃないでしょうか。

 これでいちおう完結です。

 ただ,近代憲法の成立に大きな役割を果たした国はもう一つあります。ここまでであまり触れられなかったポイントもあるので,そのお話を次回からしていきましょう。

 

参考文献:

君塚直隆『イギリスの歴史』(河出書房新社)

君塚直隆『君主制とはなんだろうか』(ちくまプリマー新書)

ゴードン・S・ウッド『アメリカ独立革命』(岩波書店)

和田光弘『シリーズ アメリカ合衆国史① 植民地から建国へ』(岩波新書)

松井茂記『アメリカ憲法入門』(有斐閣)

宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)

ロック『市民政府論』(光文社古典新訳文庫)

トーマス・ペイン『コモン・センス他二編』(岩波文庫)

浦部法穂『世界史の中の憲法』(共栄書房)

青木康『議会を歴史する』(清水書院)

横大道聡・吉田俊弘『憲法のリテラシー』(有斐閣)

M・L・ベネディクト『アメリカ憲法史』(北海道大学図書刊行会)

ジーン・フリッツ『合衆国憲法のできるまで』(あすなろ書房)

アメリカ国務省出版物 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/

アメリカ憲法全文 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3330/