『野火』『俘虜記』『レイテ戦記』『武蔵野夫人』などで有名な作家大岡昇平による裁判小説です。つい最近,創元推理文庫から新しく出ました。帯には「日本文学の重鎮が描破した不朽の裁判小説」とあります。描破(びょうは)はATOKが変換してくれずどんな意味だろうと思いましたが,すべてを書き尽くすという意味だそうです。たしかに,刑事手続,とくに法廷での手続が丁寧に描かれています。
時代は昭和36年ですので,60年くらい前ですね。19歳の若者による殺人事件が起訴され,その公判でのやりとりが小説の大半を占めます。
現行刑訴法は戦後の昭和23年に全面改正されていますが,このころはまだ旧刑訴法の名残らしきものがあったようです。当時は裁判官のなり手が少なかったという話や弁護人に支払ったのが20万円(現在の200万円くらい?)という話など,いろいろと当時の様子を知ることができて興味深いです。
その裏返しになりますが,現在では法律や運用が変わってしまっているところも多く,せっかく詳細に裁判手続が描破されているのに,このままでは「刑事手続入門」としては使えなくなっている点は残念です。
たとえば現在では裁判員裁判制度が導入されていますので,『事件』のような殺人被告事件は裁判員裁判となります。裁判官だけでなく裁判員も合議に参加していたら結論は変わっていたかもしれません。検察官も弁護人も裁判員向けにどんなふうにアピールしたでしょうね。
また,公判前整理手続も導入されています。『事件』においてやや否定的に語られていた「集中審理方式」「事前準備」の手続が,現在では正式に採用されていると言えます。そうすると,公判の進行は事前にきちんとスケジュールを立てられてしまいますので,予定外の証人尋問請求はなかなか通らないでしょう。
そうはいっても,通常の法学書を読むよりは圧倒的に面白く,読む価値は大いにあります。
今も昔も変わらない問題,たとえば真実とは何か,裁判における真実とは,裁判官はどのように事実を認定するのか,そしていかに裁くべきなのか,裁判長は合議のときに「公正」「事案の“すわり”」と述べたがその意味は,そしてそれははたして妥当なのか,といったことをつらつらと考えてしまいます。
なお,これも裁判員制度以前の本ですが,朔立木『死亡推定時刻』という小説もおすすめです。また,やってもいないのになぜ自白してしまうのかという点については,浜田寿美男先生の『自白の心理学』がよいでしょう。