『日本人の法意識』に引き続き,川島先生の著作を取り上げます。『「科学としての法律学」とその発展』です。タイトルの通り,「科学としての法律学」という論文と,その後に発表したものを含めた著書になります。学術論文ですので,まあまあ難しいです。
川島先生がこの著書で考察しているのは,「法学とはいったいいかなる学問なのであろうか」「いかなる学問であるべきか」という問題です。
法学は基本的には法解釈学のことですが,法解釈学においては「論理的には複数成立するうちの法解釈のうち,どの法解釈を採用するのか」「どの法解釈が正しいのか」「どういう基準で法解釈を選ぶのか」が問題となります。
もし法学が科学なのであれば,実験や観察を繰り返すことで,どの法解釈が正しいかを解明することができるでしょう。
しかし,法解釈の性質上,どの法解釈が正しいか実験や観察によって確認することは不可能です。
そのため,「解釈する人が好き勝手に法解釈を選ぶことができてしまうではないか」「それでは法学は科学とは言えないのではないか」「法学は学問の名に値しないのではないか」といった疑問が生じてくるわけです。
現実においても,法律家や権力者が好き勝手に法解釈をしている事態がしばしば見られます。そういう現実を目の当たりにした一般の人は,「これだから法律家なんて信用ならない」「白いものも黒と言いくるめてしまう」「結局は力が強いものの言い分が押し通せるのだ」といった考えを持つに至るでしょう。それではよろしくありません。力による支配を否定して法による支配を打ち立てたことがまったく無意味になってしまいます。
じゃあどうしたらよいか?
法解釈学における「どの法解釈を採用すべきか」という問題の「採用すべきか」という部分は,どうしても,その採用する人の判断が入ってきます。
しかし,その人の単なる好みによって「採用すべきか」を決めるのではなく,客観的な判断基準によって決めるようにすればよいわけです。
「どの法解釈を採用すべきか」という問題において考慮されているのは,結局のところ,どの価値を優先させるかという価値判断です。その社会で生きている以上,その社会においてどのような価値が優先されるかは,人々の頭の中に共有されているはずです。そういう意味で,価値の体系は客観的に存在していると言えます。
法解釈を採用する際には,そのような価値の体系に従ってなされなければなりません。そうでなければ,そのような法解釈は社会に受け入れられないでしょう。
そういう意味において,法解釈は単なる好みに基づく主観的判断ではなく,客観的判断と言えそうです。
ただし,川島先生自らおっしゃっていますが,これは法解釈が単なる主観的なものではないということであり,科学の真理性(客観性)と同じということまで意味するわけではありません。
でもそれでいいんじゃないかという気もします。他の社会科学も人文科学も,「科学」とはついていますが真理を求めているわけではなさそうです。
そもそも,「法解釈は主観的判断か客観的判断か」という二者択一の問いの立て方自体がおかしいのではないか,法解釈の判断はどちらでもない第三の何かなのではないか,つまり単なる好みじゃないけど科学の真理でもない何かなのではないか,という気がしてきます。
さて,そうすると,社会に存在する価値の体系を探っていくことが大切だということになりそうです。
私の理解では,そのような考え方の下,川島先生は法社会学の研究に進まれたのだと思います。
そもそもは,末弘厳太郎先生が,「実用法学と法社会学との関係は、たとえて言えば、工科の学問と理科の学問との関係、臨床医学と基礎医学との関係に似ている」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000922/files/47100_32182.html)とおっしゃっています。
次は星野先生の『民法論集1』にある「民法解釈論序説」かなあ。