民法中伝4回目:表示に対応する意思がなかった場合
1 千里の道も一歩から
遠い昔,老子は「千里之行 始於足下」とおっしゃったそうです。千里の行は足下において始まる,すなわち千里の道も一歩からです。
民法は膨大な量がありますが,結局は一歩一歩進んでいくしかありませんので,「まだこんなにもある」と思うのでなく「これだけ学習が進んだ」というふうにとらえて前に進みましょう。
2 前回の<事例2><事例3>
前回の続きです。
もう一度,事例を出しておきます。
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<事例2>
Xは,Yに対し,「俺が持っているこの土地を1000万円で売ってやる」と言った。Yは,熟慮の末,その土地なら適正額だと考え,「買う」と答えた。
ところが,Xが「売ってやる」と言ったのは冗談であり,本心ではまったく売るつもりはなかった。
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<事例3>
Xは,Yに対し,「俺が持っている『A』の土地を1000万円で売ってやる」と言った。Yは,熟慮の末,その土地なら適正額だと考え,「買う」と答えた。
ところが,Xは本心では『B』の土地を売るつもりだったのに,間違えて『A』の土地と言ってしまっていた。
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3 意思の欠缺
民法は,「意思」がなかった場合として,第93条で「心裡留保」,第94条で「虚偽表示」,第95条で「錯誤」の3つを規定しています。これらを合わせて「意思の欠缺」と言います。
余談:欠缺
はじめて「欠缺」という文字を見たときは,まったく読めませんでした。皆さんはいかがですか。「けんけつ」と読みます。
「缺」って何だろうという感じですが,調べてみたところ「欠」の旧字体のようです。つまり「欠缺」は同じ意味の漢字を重ねた言葉だったんですね。
こういう難しげな言葉を使うと,いかにも法律家ぽい雰囲気を醸し出せてよいかもしれません。
余談:意思の欠缺から意思の不存在へ
かつて民法第101条に「意思の欠缺」という文言がありました。
しかし,読めない人が多かったのか,わかりにくいということで「意思の不存在」という文言に改正されました。
ですので,「意思の不存在」が一般的な用語となっています。法律家らしさを醸し出そうと「意思の欠缺」と言うと年寄り扱いされてしまうおそれがありますので気をつけましょう。
4 心裡留保
まずは心裡留保からです。
心裡留保というのは,「表意者がその真意ではないことを知ってした」意思表示のことです。要するに,わかっていてわざと嘘の意思表示をした場合です。<事例2>のXの意思表示がこれです。
なお,「表意者」というのは意思表示をした人のことです。意思表示を受ける側のことはだいたい相手方と言います。
余談:心理でなく心裡
心裡留保は心理ではなく「心裡」ですので気をつけましょう。「裡」とは「うち」であり,心のうちに真意を留保しているから心裡留保です。
初めて遭遇したときは「心裡留保」ってなにやらかっこよさげな四字熟語だなあと思ったものです。
しかし,「心裡留保」はわざと嘘を言っているわけですから,相手を混乱させるだけであり,褒められた行為ではありません。意思表示で冗談を言うのはやめておきましょう。
5 心裡留保の効果
心裡留保の場合,意思が欠けているので,表意者の意思表示は無効ということになりそうです。意思主義からするとそうなるはずです。無効となれば,売買契約から生ずる義務を負わずにすみます。
しかし,自分が嘘を言っていると自分自身でも認識している以上,そんな表意者を保護するために無効とする必要性はありません。相手方からしても,後から「あの意思表示は冗談だったから無効ね」と言われても「何を都合のいいこと言っとんねん,契約通りの義務を履行せんかい」となるでしょう。
そこで,民法第93条本文は,心裡留保だったとしても「そのためにその効力を妨げられない」と規定しています。つまり,意思主義による修正をせず無効となることはない,有効のままだということです。
6 相手方が心裡留保と知っていた場合
ただし,これには例外があります。
心裡留保ということを相手方が知っていた場合には,そんな相手方を保護する必要はありません。相手方が知ることができたはずだという場合も同様です。
そこで,民法第93条ただし書きは,相手方が知っていたか過失により知らなかった場合には,意思表示は無効となるとしています。
補足:意思表示が無効になると契約が不成立になるのか
民法第93条ただし書きによると,無効となるのは「意思表示」です。そうすると,「売ります」ないし「買います」が無効なわけですから,そもそも合意が成立しておらず,したがって売買契約は成立していないというふうに考えることもできます。
しかし,そうではなく,「売ります」ないし「買います」として成立はするけれども,その効力が否定されるということです。そのため,売買契約も成立はするが,意思表示が無効となったことで売買契約も無効となると考えるようです。
このように考えるのは,まず意思表示が合致しているかどうかを判断し,次いで例外的に意思表示が無効かどうかを判断する,という順番で考えていくのが便利だからです。前にも申し上げたように思いますが,成立→有効という順番で考えるということを押さえておきましょう。
7 <事例2>のまとめ
<事例2>を整理します。
まずはベースとなる表示主義で考えるのでした。そうすると,Xは「売ります」と表示していますので,この「売ります」は有効になりそうです。
しかし,Xはそのとき真意ではなかったということで,意思が欠けています。そのため,意思主義による修正が入り,「売ります」は無効になりそうです。
ところが,Xは自分が真意でないことを百も承知であり,保護する必要がありません。むしろ,Xの「売ります」を信頼したYのほうが保護されるべきです。
よって,民法第93条本文により有効となります。
そうは言っても,もしYもそのとき知っていたり,過失で知ることができなかったような場合には,Yを保護する理由もないということで,民法第93条ただし書きにより無効となります。
8 錯誤
条文は一つ飛びますが,次に民法第95条の錯誤に進みます。
錯誤とは,表示と意思の不一致を知らずになされた意思表示のことです。要するに,まったく勘違いしていて,思ってもいなかったことを表示してしまった場合です。
心裡留保はわざと違うことを言った場合でしたが,錯誤は自分では気づかずに違うことを言っています。
先ほどの<事例3>のXの意思表示が錯誤になります。
9 錯誤の効果
錯誤の場合,意思が欠けていますので,民法第95条本文により「無効」となります。意思主義による修正が入るということです。
心裡留保の場合と異なり,錯誤の場合は表意者は自分が内心と違うことを表示していることに気づいていないのですから,保護する必要性があるのです。
10 相手方の保護をどうするか
とはいえ,<事例3>でも,やはり相手方のYのほうを保護しないといけないようにも思えます。
<事例2>のXはわざと嘘をついている点で論外ですが,<事例3>のXも,もっと慎重に意思表示すべきだったのに,うかつにも勘違いしたわけです。つまり,<事例3>のXにもいささかの非があると言えます。
常識的に考えても,後になって「ごめん,勘違いだったから無効ね」などと安易に言われても,相手からしたら「なんでやねん」という話にしかなりません。
そこで,民法は,次のように表意者と相手方の保護のバランスを図っています。
11 要素の錯誤に限られる
まず,民法第95条本文は,無効になる場合を「法律行為の要素に錯誤があったとき」に限定しています。「要素」というのは主要部分のことを言います。
つまり,何らかのささいな勘違いがあっただけでは足りず,主要部分についての勘違いでなければなりません。民法は,無効となる範囲を狭くすることでバランスをとっているわけです。
なお,大正3年12月15日大審院判決は,要素に錯誤があったと言える場合とは,表意者が事情を知っていたのであればその意思表示をしなかったであろうという場合で,かつ,通常人が表意者の立場に立ってもやはり同じだろうと言える場合だと判示しました。
12 重過失があると無効主張できない
次に,民法第95条ただし書きは「表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない」として,無効主張ができる場合をさらに制限しています。
「重大な過失」というのは略して重過失と言いますが,ちょっと注意すれば間違えなかったのに間違えた,という場合です。そんなうかつな表意者までは保護する必要がないだろうということです。
裏返すと,通常の過失があった場合,つまり,それなりに注意は払っていたが間違えたという場合には,無効主張できます。錯誤に陥るような場合というのはなんらかの過失があったからでしょうから,通常の過失があった場合まで無効主張できないとなると錯誤を無効とする意味がなくなるからです。
補足:「無効を主張することができない」
民法第95条ただし書きは,重過失ある場合には「無効を主張することができない」という規定になっています。「主張することができない」という文言が少し気になるかもしれません。気にならないならいいんですけど。
民法を起草する際の原案は「此限ニ在ラス」という規定になっていたようです。「この限りでない」ということは,「本文のように『無効』となることはない」ということですので,つまりは有効ということです。
この原案に対し,もともと無効だったのが重過失ある場合には有効になるというのでは理屈としておかしいんじゃないか,という意見が出て,じゃあ改めましょうということで「無効ヲ主張スルコトヲ得ス」となったそうです。しかし,別におかしくないという反論も可能だった気もします。
「無効を主張することができない」ですと,無効は無効だけれど,主張することができないのでその結果として有効として扱われるということになります。
13 重過失があっても相手方が知っていた場合
なお,たとえ表意者に重過失がある場合でも,表意者が勘違いしていることについて相手方が知っているような場合には,相手方を保護する必要性がありません。
よって,相手方が表意者の錯誤について悪意の場合には,民法第95条ただし書きの適用はないと解釈されています。
14 錯誤とは意思が欠けること
ここで,「錯誤」そのものにもどります。
民法第95条の「錯誤」とは,表意者が意思と表示とが一致しないことを知らずに意思表示を行う場合でした。
この場合の意思というのは,表示に対応する意思になります。つまり,表示に対応する意思がない場合が錯誤です。言い換えると,表示に対応する意思が存在する場合には,錯誤とはならないということです。
15 動機の錯誤
何のこっちゃという感じかもしれませんので,次の事例を見てみましょう。
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<事例4>
Xは,自己が所有している土地はどんどん値下がりしているので価値が低い土地だと思い,Yに対し,「俺が持っている土地を1000万円で売ってやる」と言った。
Yは,熟慮の末,その土地なら適正額だと考え,「買う」と答えた。実際には,その土地はどんどん値上がりしている土地だった。
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<事例3>のXには「『A』の土地を売る」という意思があったのであり,「『B』の土地を売る」という表示に対応する意思はありませんでした。「錯誤」にあたります。
これに対し,<事例4>のXには,「俺が持っている土地を1000万円で売ってやる」という表示に対応する意思は持っています。そこの部分に食い違いはありません。ただ,その土地が値下がりしている土地か値上がりしている土地かというところに勘違いがあるだけです。このような場合を「動機の錯誤」と言います。
16 意思表示の形成プロセス
人が意思表示をする際には,まずは「動機」がきっかけとなります。先ほどの<事例4>で言えば,Xが考えた,「俺の土地はどんどん値下がりしていて価値が低い。もう売ってしまいたい」というものになるでしょう。
次に,Xは「よし,俺の土地を1000万円で売ろう」と決めています。これが「効果意思」です。
そして,XはYに対して「俺が持っている土地を1000万円で売ってやる」と言っています。実際に表示する行為を「表示行為」と言います。
17 錯誤は効果意思と表示が一致しない場合とするのが伝統的な考え方
伝統的な考え方では,効果意思と表示が一致しない場合だけが民法第95条の「錯誤」に該当します。
そうすると,動機の錯誤の場合には効果意思と表示とは一致していますので,動機の錯誤は民法第95条の「錯誤」には含まれないということになります。
18 動機の部分も含むとなると錯誤が広くなりすぎる
もし,動機に勘違いがある場合まで「錯誤」に該当して無効主張できるとなると,無効になるケースが多すぎて相手方が迷惑ですし,ひいては取引の安全を害するでしょう。そういうところに配慮して,伝統的な考え方は動機に錯誤があっても無効にはならないとしたのだとも言えます。
19 動機が表示されていた場合
しかし,勘違いというのは,だいたいは動機の部分において生じるようにも思えます。にもかかわらず,動機の錯誤がすべて錯誤にならないというのでは,かえって表意者に気の毒な場合もあるでしょう。動機の錯誤をすべて排除してしまうと,「錯誤」になる場合が狭くなりすぎると言えます。
そして,意思表示の際に動機が表示されていたのであれば,相手方もわかっていたはずだから,さほど迷惑にはならないでしょう。
そこで,大正3年12月15日大審院判決は,動機であっても,表意者がこれを意思表示の内容に加える意思を明示または黙示に表示したときは,意思表示の内容になると判示しました。
補足:黙示に表示
判例の「動機を明示に表示」はわかりますが,「黙示に表示」って何なんだろうと思いませんか。
はっきりと「これは珍しい古本だから買いたいと思っている」と言葉で述べている場合が「明示に表示」ですが,明言していなくとも全体の雰囲気やら何やらでわかるだろうという場合が「黙示に表示」です。
相手方が動機を知ることができたかどうかが重要なので,明示に表示された場合だけでなく,黙示に表示された場合も含むわけです。
20 動機の錯誤のまとめ
動機の錯誤についてまとめると,原則として動機の錯誤は民法第95条の「錯誤」にならないが,動機が明示または黙示に表示された場合には「錯誤」になります。
ただし,「要素」の錯誤でなければなりませんし,表意者に重過失があると無効主張できません。これらの要件は相変わらず満たす必要があります。
補足:二元説と一元説
以上のような,伝統的な考え方及び判例の考え方を,「二元説」と呼びます。動機に錯誤がある場合と,効果意思・表示意思と表示に食い違いがある場合とを区別する考え方だからです。
これに対し,区別しない考え方が有力です。そもそも二元説のように二つにきれいに区別できるのかが疑問だというのです。これを「一元説」と言います。
21 改正民法第95条
民法第95条は,改正によって大きく改められています。
詳しくは各自で条文を見ていただきたいのですが,①「要素」の内容が判例の考え方に沿って明文化された,②動機の錯誤を定義して明文化した,③錯誤の効果が「無効」から「取消し」に改められた,④表意者に重過失があっても,錯誤について相手方が悪意または重過失があったら取消しができることを明文化した,等の改正がなされています。
錯誤のところは民法の一大重要論点だったのですが,改正で整理されたと言えます。なお,③については,錯誤の位置づけが意思の欠缺・不存在から瑕疵ある意思表示に変更になったと言えます。これは後でまた触れます。
22 <事例3>のまとめ
<事例3>のXは,『B』の土地を売るという意思で,間違えて『A』の土地と表示しており,効果意思と表示との間に食い違いがあるので錯誤があります。
どの土地を売るかはとても重要であり,Xも一般人も,錯誤に気づいていれば意思表示しなかったでしょうから「要素」の錯誤と言えます。
最後に,Xに重過失があるかですが,たしかにXはうかつだったと言えます。もしXが不動産業者だったりすれば,不動産取引に関する知識能力が高いはずですから,重過失が認められやすいでしょう。
23 <事例4>のまとめ
<事例4>のXの意思表示には,すでにお話ししたように動機に錯誤があります。
そして,Yに対して言ったのは「俺が持っている土地を1000万円で売ってやる」ということだけであり,Xのその他の挙動からもとくにXの動機はうかがわれないようです。
したがって,動機が表示されたとは言えず,民法第95条の「錯誤」には該当しないということになります。
24 虚偽表示
民法第94条に進みます。
虚偽表示は通謀虚偽表示とも言いますが,「相手方と通じてした虚偽の意思表示」のことです。要するに,相手方と企んで嘘の意思表示をした場合です。
心裡留保も錯誤も自分一人だけの問題でしたが,虚偽表示は相手と通じて企んでいる点が異なります。
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<事例5>
Xは,諸事情により自分の財産を隠す必要に迫られていたので,Yに対し,自己が所有する土地をYに1000万円で売ったことにしてほしいと頼み,Yは承諾した。そこで,「売ろう」「買おう」というやり取りをしたこととし,登記をYに移し,土地を引き渡した。
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「諸事情」としてよくあるのは,借金で財産を差し押さえられてしまいそうだから,他人名義にして隠そうという場合です。
25 虚偽表示の効果
虚偽表示の場合,形としては「売ります」「買います」の合致はありますが,いずれも真意に欠けています。また,相手方も一緒になって企んでいたのですから,そんな相手方の保護を考える必要もありません。そこで,民法第94条1項は,通謀してなされた虚偽の意思表示は無効と規定しています。
26 <事例5>のまとめ
<事例5>でも,Yは嘘だと承諾しています。もしかしたら,後からYが「登記名義は俺のものになっているんやし,俺のもんや!」とか言い出すかもしれません。しかし,そういうときはXは「何を言うてんのや,虚偽表示やから民法第94条1項により意思表示は無効や。売買契約は成立してへんのやから所有権も移転してへんわ。はよ返さんかい」と言えるわけです。登記が移転していても所有権が移転しているとは限らないんでしたよね。
嘘でこんなことをするXを保護する必要はあまりなさそうですが,Yを守ってあげる必要はもっとないだろうということで,真の権利者のXが土地を取り戻せることになります。
27 問題は第三者が生じた場合
ここまではとくに難しくもないと思うのですが,虚偽表示で大きな問題が生じるのは次のような場合です。
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<事例6>
<事例5>で,Yは,自分に登記が移っているのをいいことに,事情を知らないZに土地を売却した。
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第三者であるZが出てきました。
何回か申し上げているように,三者の関係になると一気にややこしくなります。ややこしくならないように,財産隠しをするなら第三者に売却しないような信頼できる相手にしましょう。
28 民法第94条2項も民法の一大論点
ここから民法第94条2項の話になるんですが,ここも民法の一大論点です。この問題は次回に回しましょう。
29 意思が欠けているわけではないが意思形成過程に問題がある場合
ここまでは,表示があるけれども意思がない場合,すなわち意思の欠缺・不存在の場合を学習してきました。
ところで,意思はあるけれども,意思を形成する過程がまっとうでない場合もあります。例えば,次のような場合です。
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<事例7>
Xは,Yから,Yが所有している土地を買って建物を建てないかともちかけられ,その気になった。そこで,Xは,Yから1000万円で買う契約をした。ところが,その土地は実は建築制限がなされていて,建物を建てることはできなかった。そして,Yはそのことを知っていた。
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<事例8>
Xは,Yが所有している土地がどうしても欲しくなり,仲間を引き連れてYのもとを訪れ,取り囲んでやいのやいのと言った。恐怖を感じたYは,Xに1000万円で売る契約をした。
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30 <事例7>におけるXは騙されている
<事例7>のXは,「Y所有の土地を1000万円で買おう」という表示をしています。そして,それに対応する意思も持っています。
ただ,XがY所有の土地を買おうと表示する気になったのは,Yから働きかけられたからです。働きかけられただけなら別に問題はないのですが,Yの働きかけは,本当は建物が建てられないのにそのことを伏せて「建てないか」と持ちかけるものですので,不当なものと言えます。Xからすれば「Yに騙された,あいつ知っていて黙ってやがった,建てられないと知っていたら俺は決して買わなかった」となるでしょう。
31 詐欺
この<事例7>でYがしたように,他人を騙して錯誤に陥らせ,それによって意思表示をさせようという行為を「詐欺」と言います。Xは,詐欺によって意思表示をしてしまっています。
32 詐欺かどうかの判断
通常の取引における交渉過程では,少し大げさに言って営業トークをしたりということは,ある程度は普通のこととも言えます。なので,どこから不当な働きかけとして「詐欺」になるかは微妙なところがあります。信義に反し違法な場合が「詐欺」になるとされていますが,常識的に判断することになるでしょう。
33 詐欺による意思表示は取り消すことができる
民法第96条1項は,「詐欺」によって行うこととなった意思表示は,取り消すことができると規定しています。
34 無効ではなく取消し
これまでに出てきた心裡留保,錯誤,虚偽表示は,いずれも効果が無効でした。
これに対し,詐欺によってなされた意思表示の効果は,取消しができるというものです。ということは,民法第121条本文により,取消権が行使されて初めて無効になります。
35 無効と取消しの違い
結局は同じことになるんじゃないかと思うかもしれませんが,「無効」というのは法的な効力を生じないという状態であるのに対し,「取消し」は,取消権という権利であり,この権利を行使することで初めて無効という状態にできます。取り消さなければ有効のままです。
36 意思がなければ無効だが瑕疵があれば取り消し
心裡留保,錯誤,虚偽表示の効果が無効なのは,意思が欠缺・不存在だからです。意思に欠けているので,効果も生じない,すなわち無効だということです。
これに対し,詐欺の場合は,不当な働きかけがなされているという点で問題があるものの,意思そのものは欠けていないことから,無効ではなく取消しうるものとされています。
37 錯誤の効果が無効から取消しへ
錯誤については,先ほどお話ししたように,動機の錯誤も含むかという議論がありました。動機の錯誤の場合は意思に欠けているわけではないので「錯誤」には含まれない,意思に欠けるものが「錯誤」であり,意思に欠ける以上は「錯誤」の効果は無効であるというのが伝統的な考え方でした。
ところが,改正民法第95条では,一定の場合に「錯誤」に動機の錯誤も含むことになりました。そうすると,「錯誤」は意思が欠けているから無効だとは言えなくなります。
そこで,改正民法第95条1項は,錯誤の効果を取消しができると改めました。
理屈を詰めて考えると,意思が欠ける錯誤については無効,そうでない錯誤については取消しができる,というふうになりそうです。しかし,それでは複雑になって混乱するので,取消しができるということで統一されました。
38 本来なら無効は誰でも主張できる
なお,錯誤の効果については,現行民法でも従前から議論がありました。錯誤にもどりますがここで触れておきます。
一般的に,無効の場合は,誰でも効果がないということを主張できます。錯誤無効についても,意思がないのだから意思表示も存在しない,存在しないことは誰でも主張できるはずだ,という考え方もありました。
しかし,錯誤においては,同じように考えるべきではないという考え方が一般的でした。
39 錯誤制度の趣旨から錯誤無効は表意者だけが主張できると考える
そもそも,錯誤による意思表示が無効とされているのは,そうすることで錯誤に陥って意思表示をした者を保護するためです。そうであれば,錯誤に陥った者だけが無効を主張するかどうかを選ぶことができると考えるべきであり,その他の人々に無効主張を許す必要はありません。
最高裁昭和40年9月10日判決も,「民法九五条の律意は瑕疵ある意思表示をした当事者を保護しようとするにあるから、表意者自身において、その意思表示に何らの瑕疵も認めず、錯誤を理由として意思表示の無効を主張する意思がないにもかかわらず、第三者において錯誤に基づく意思表示の無効を主張することは、原則として許されない」という原判決を是認しています。
40 相対的無効ないし取消的無効
このように,錯誤無効については,一般的な無効とは異なり,主張する者が意思表示をした者だけと解釈されていました。ですので,通常の無効と区別して,錯誤無効は「相対的無効」ないし「取消的無効」と言われていました。
このような背景があったことも,先ほど申し上げましたように,錯誤の効果が改正された原因の一つと言えます。
41 <事例8>におけるYは脅されている
<事例8>のYも,「Xに1000万円で土地を売ろう」という表示をしており,それに対応する内心の意思があったことも間違いありません。
ただ,そのような表示をする意思が形成されたのは,Xから脅されたからです。脅されたような場合には,自由な意思決定ができていません。明らかに,脅したXよりも脅されたYを保護すべきです。
42 強迫
この<事例8>でXがしたような,害悪を示して他人を畏怖させ,それによって意思表示をさせようとする行為を「強迫」と言います。
43 強迫による意思表示も取り消すことができる
民法第96条1項は,詐欺と並んで,強迫によって行うこととなった意思表示も取り消すことができると規定しています。
余談:強迫と脅迫
民法第96条が規定しているのは「強迫」です。「脅迫」ではないので間違えないようにしましょう。でも,どう違うんでしょうね。
民法を起草する際に,「強迫」と「脅迫」のどちらにすべきかで議論があったようです。旧民法では暴行,脅迫となっていました。両者をひっくるめる意味で「強迫」にしたということです。しかし,イメージとしては,強迫と脅迫とであまり変わりがないようです。
44 第三者からされた場合には詐欺と強迫とで違いがある
先ほど申し上げたように,詐欺にあって意思表示をした場合も,強迫されて意思表示をした場合も,ともに民法第96条1項によって意思表示を取り消すことができます。この点は同じです。
しかし,両者を比べてみると,詐欺にあったほうはうかつに騙されたとも言えるのに対し,強迫にあったほうはただただ気の毒です。
そこで,民法第96条2項は,第三者からの詐欺によって意思表示をした場合には,相手方がそのことを知っていた場合でなければ取り消しができないと規定しました。これに対し,強迫についてはこのような規定がありませんので,第三者から強迫された意思表示をした場合であっても,民法第96条1項で取り消すことができます。
45 瑕疵ある意思表示
なお,詐欺や強迫された場合のように,不当な働きかけによってなされた意思表示を「瑕疵ある意思表示」と言います。
46 <事例7>のまとめ
Yは,自分の土地には建物が建てられないことを知っており,そのうえでXにその土地を買って建物を建てないかともちかけています。ちょっと大げさめに言ったというレベルではありません。Xはまったく目的が達成できないのに1000万円も支払う羽目になっています。Yによる働きかけは信義に反し違法と言えますので,「詐欺」にあたると言えます。
よって,Xは,自己の意思表示を民法第96条1項に基づいて取り消すことができます。1000万円の支払義務はなくなり,もし支払っていれば返還を請求することができます。
47 <事例8>のまとめ
ほとんど<事例7>と同じなので,少し毛色を変えてみましょう。
「早く土地を引き渡せや。登記も移転しろや」
「お断りします」
「合意したやろが。売買契約が成立したんやから,おまえは財産権移転義務を負うてるやろ。こっちは契約通り1000万円きっちり払うたるから文句ないやろ」
「たしかに合意はしました」
「じゃあ義務を果たさんかい」
「でもあのときの私の意思表示は,大勢に取り囲まれてやいのやいのと言われたことで恐怖を感じたからでした。強迫されて意思表示をしたのですから,民法第96条1項により私は取り消すことができます。今この場で取消権を行使します」
「なんやと」
「取り消したので,民法第121条本文により売買契約は無効です。私の財産権移転義務はもうありません。きっぱりお断りします」
48 今回のまとめ
今回は,意思表示についてお話ししてきました。
心裡留保,虚偽表示,錯誤,詐欺,強迫とありますが,これらをずらずらと並べて覚えようとしても難しいと思います。
まずはそれぞれを典型例で覚えましょう。そして,意思の欠缺か瑕疵がある場合なのかで分けましょう。そのうえで,どのような違いがあるのか,その違いがどのように反映されているのかを整理しましょう。
次回は,第三者との関係についてお話しします。